ISSB開示基準(S1・S2)導入の最新動向と日本企業が直面する実務課題
はじめに:高まるISSB基準への関心と日本企業の対応
サステナビリティ関連の企業情報開示は、世界の潮流として急速に進化しています。特に、国際会計基準(IFRS)財団の下に設立された国際サステナビリティ基準審議会(ISSB)が公表したIFRSサステナビリティ開示基準(S1号「サステナビリティ関連財務情報の開示に関する全般的要求事項」およびS2号「気候関連開示」)は、その中核を成すものです。これらの基準は、企業のサステナビリティ関連のリスクおよび機会に関する情報を、投資家やその他の資本市場参加者の意思決定に有用な形で開示することを目的としています。
日本企業においても、グローバルな事業展開や海外投資家との対話の観点から、ISSB基準への対応は避けて通れない課題となっています。国内においても、金融庁がISSB基準の動向を注視し、サステナビリティ基準委員会(SSBJ)が国内基準の開発を進める中で、ISSB基準との整合性が重要な論点となっています。本記事では、ISSB基準の最新動向とその要求事項を確認しつつ、日本企業が直面する具体的な実務課題と対応策について考察します。
ISSB基準(S1・S2)の概要と主要な要求事項
ISSB基準は、既存の主要なフレームワークや基準(例:TCFD、SASB、CDP、CDSB、IASB基準)を統合・発展させる形で策定されました。その主な目的は、企業が投資家に対して、企業の価値評価に影響を与える可能性のあるサステナビリティ関連のリスクと機会に関する包括的で比較可能な情報を提供することです。
IFRS S1号:サステナビリティ関連財務情報の開示に関する全般的要求事項
S1号は、企業が財務諸表と併せて開示するサステナビリティ関連財務情報の「全般的要求事項」を定めています。その中核は以下の要素です。
- ガバナンス: サステナビリティ関連のリスクおよび機会を監視・管理するために企業が採用しているガバナンスプロセス、統制、手続き。
- 戦略: 企業がサステナビリティ関連のリスクおよび機会をどのように管理しているか、またそれらが企業の事業モデル、戦略、キャッシュフロー、資金調達へのアクセス、資本コストにどのように影響を与えているか。
- リスク管理: サステナビリティ関連のリスクを識別、評価、管理するために企業が使用しているプロセス。
- 指標と目標: サステナビリティ関連のリスクおよび機会に関する企業のパフォーマンスを測定するために使用される指標(メトリクス)。設定しているサステナビリティ関連の目標に対する進捗状況。
S1号は、企業が識別した「重要な(マテリアルな)」サステナビリティ関連のリスクおよび機会について開示を求めています。マテリアリティの判断にあたっては、IFRS会計基準における財務報告のマテリアリティの概念を基盤としつつ、投資家の意思決定に影響を与える可能性のあるサステナビリティ関連のリスクと機会を含める点が特徴です。
IFRS S2号:気候関連開示
S2号は、S1号で規定される全般的要求事項を、特定のトピックである「気候関連リスクおよび機会」に適用するものです。TCFD提言を基盤としており、以下の4つの柱に沿った開示が求められます。
- ガバナンス: 気候関連のリスクおよび機会に対する監督体制。
- 戦略: 短期、中期、長期において識別された気候関連のリスクおよび機会が、企業の事業、戦略、財務計画に与える影響。レジリエンス分析(例:シナリオ分析)。
- リスク管理: 気候関連のリスクを識別、評価、管理するために使用されるプロセス。
- 指標と目標: 温室効果ガス(GHG)排出量(スコープ1、2、3)を含む、気候関連の指標と目標。
S2号において特に注目されるのは、スコープ3排出量の開示要求です。サプライチェーン全体を含むバリューチェーンにおける排出量の算定と開示は、多くの企業にとって新たな、かつ複雑な課題となります。また、気候変動シナリオ分析に基づく事業戦略のレジリエンス評価も、高度な分析能力を要求する項目です。
日本企業が直面する実務課題
ISSB基準への対応は、単に開示項目を増やす以上の組織的な変革を伴います。日本企業が直面する主な実務課題は以下の通りです。
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データ収集と管理体制の構築:
- 特にスコープ3排出量やサプライチェーン全体に関するデータは、これまで体系的に収集・管理されていなかった場合が多く、その範囲と粒度を定義し、収集体制を構築する必要があります。
- 財務情報と同レベルの信頼性が求められるため、データの正確性、完全性、一貫性を確保するためのプロセスと統制が必要です。
- 異なる部門や海外拠点、サプライヤーとの連携強化が不可欠となります。
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マテリアリティ評価の深化:
- 投資家視点での「重要なサステナビリティ関連のリスクおよび機会」を適切に識別・評価する能力が求められます。
- 企業の事業特性や戦略を踏まえ、短期、中期、長期の各時間軸で潜在的な影響を分析する必要があります。
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ガバナンスと内部統制の整備:
- サステナビリティ関連情報の開示プロセスに対する取締役会や監査役会の監督責任が強化されます。
- 開示される情報の信頼性を確保するために、財務報告に係る内部統制に準じた体制の構築や、第三者保証への対応検討が必要となります。
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シナリオ分析の高度化:
- 気候変動シナリオ分析は、異なる将来予測の下で事業戦略のレジリエンスを評価するものであり、専門的な知識と分析ツール、データが必要です。
- 分析結果を具体的な財務影響に結びつけて開示する点は、高度な判断を伴います。
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開示体制と人材育成:
- IR部門、経営企画部門、サステナビリティ推進部門、経理部門、事業部門など、複数の部門を横断する連携体制の構築が不可欠です。
- サステナビリティと財務双方の知識を持つ人材や、データ分析、開示実務に精通した人材の育成・確保が課題となります。
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国内基準との整合性:
- SSBJが開発中の国内基準との関係性を理解し、どのように対応を進めるか、情報収集と社内準備を並行して行う必要があります。
効果的な開示に向けた戦略的視点
ISSB基準への対応は、単なるコンプライアンスとしてではなく、企業価値向上に繋がる戦略的な機会として捉えることが重要です。
- 投資家との対話強化: ISSB基準に沿った開示は、投資家が求める情報を提供するものであり、より質の高いエンゲージメントに繋がります。開示を通じて、企業の長期的な戦略やリスク管理能力を効果的に伝えることができます。
- 競争優位性の構築: 先進的な開示を行うことで、ESG評価機関からの評価向上や、サステナブル投資を志向する投資家からの選好に繋がる可能性があります。競合他社の開示事例を参考にしつつ、自社の強みや独自性を際立たせる工夫が求められます。
- 事業変革の推進: 開示のために必要となるデータ収集やリスク評価のプロセスは、サステナビリティを経営の中核に統合し、事業戦略やオペレーションを変革する契機となり得ます。
結論:ISSB基準対応は経営戦略の重要な一環
ISSB基準の導入は、企業にとってサステナビリティ情報を財務情報と同等に扱う時代の到来を告げるものです。これは情報開示部門のみならず、経営層を含む全社的な課題として捉える必要があります。
今後、ISSB基準は世界的に普及し、日本国内の開示ルールにも影響を与えていくと考えられます。早期から基準の内容を理解し、実務課題を特定し、必要な体制構築やプロセス整備を進めることが、企業の持続的な成長と企業価値向上に不可欠となります。投資家や市場からの期待に応えるため、そしてサステナビリティを経営戦略の中核に据えるためにも、ISSB基準への対応は積極的に進めるべき重要なアジェンダです。